大学卒業

2021年3月25日 筑波大学を卒業

自分が参加している展示の最終日の朝、家から会場に向かう途中、離任式だろうか、中学校で生徒8人くらいが花束を抱えた先生の周りでなにやら泣いている。

今年は自分の周りでも卒業してつくばを離れる人が多くいる。

自分の状況と、目の前の状況が重なってついうっかり泣きそうになる。

2016年に入学してからの5年間について、箇条書き的にまとめておこうと思う。


2016年4月 国際総合学類に入学

高校3年の夏まで競泳に全てをかけていたから、勉強はあまりできる方ではなかった。一人暮らしをしたかったし、かろうじて人並みにできる英語と数学で入学できる国立大学を目指すことにした。

高校の国語の教師の影響によって資本主義社会に嫌気がさしていた頃で「俺が世界を変えてやるよ」という気持ちもあったし、ちょうどいいやと国際総合学類を目指そうと適当に決めた。

大学入試が終わって無事に合格が分かってすぐ、ギターを買った。
バンドをやりたかった、とかではなく、単に憧れていた。
高校で成果が残せなかったら水泳は引退する、そう決めていて、案の定大した結果は残せなかった。
高校までのトレーニングは本当にキツかったし、もう二度とあそこまで身を削る覚悟は自分にはできない。
大学に入ったら、軽音サークルにでも入るのかな。とか、なんとなくで生きていた。

大学の入学式、初めての一人暮らし、広すぎる大学、知らない顔、顔、顔。
水泳で晴らせなかった無念が自分の中にはくすぶっていて、体育会の新歓でまたしても競技者を続ける選択をした。
こうしてトライアスロンを始めることになった。
今思えばあの瞬間は、悪魔との契約だったと思う。
約束されたトレーニングの日々、それが分かっていても自分はその選択をしなければ気が済まなかった。

朝5:30に起きて朝練に行き、1限に向かい、6限が終われば夕練に行き、その後は図書館に行く。
そんな生活がしばらく続いたし、案外やり切れてしまうもんだった。

 

一つのことに集中してしまう性格だから、そんなトライアスロン漬けの生活を送っていると、どうしてもトップを狙いたくなってしまう。
9月の全国大会にサポートで行ってレースを見たときに、強くそう思った。

その一方で、適当に大学を決めたもんだから、いまやっている学問についても違和感を感じてくる。
俺が本当に学びたいこと、やりたいことはこれなのか?

 

このままなんとなく今の勉強を続けても、そんなに楽しめないし、すごく勿体無い。
そう思って、自分の興味はなんなのか、何を楽しいと思うか、自分のことについて真剣に考えるようになった。

ものづくりに興味があったし、数学も苦手ではなく、最終的には工学の道へ進もうと決めた。
それからは、環境を変えるために数学と物理をひたすらに勉強した。

筑波大学では学類・学群を変更するときは10月に書類を出す必要があるが、12月に工学系に進むことを決めたから、書類提出が間に合わず、2年生は国際総合学類に所属したままになる。

 

2年次は、自由単として工学システム学類の1年次必修を全てとった。
その間、2年の夏にはトライアスロン部の主将に就いた。
単位をとるので精一杯で、そこにさらにトレーニングと運営の仕事、よくやりきったと思う。

 

2年生の9月、人生で初めてライブというものに行った。
音源とライブが全く別物であることを知って驚いたのが忘れられない。
この時の体験が自分にとって、あまりに大きな意味を持ちすぎたと思う。

 

2年の1月くらいに正式に学類の移動が認められた。
理転ではあるが、1年次の単位を全て取り切っていたことから、問題なく卒業できるであろうという判断だったらしい。

 

それからは、再びトレーニングに打ち込む生活が始まった。
「部のキャプテンとして全国大会に出場する」そのことだけを目指して毎日を過ごしていた。
部としては「全国大会に部から10人出場する」という目標を掲げていた。
主将である自分がガムシャラに練習に打ち込み続ける姿を見せてチームを鼓舞していこうと思った。

 

本当に多くの人たちの支えのおかげで自分は3年の夏に全国大会に出られたし、その大会に筑波大学体育会トライアスロン部から10人出場できた。
主将として、責務を果たせたなという思いと同時に、自分の競技人生11年の間ずっと叶えられなかった全国大会出場という目標、もはや呪縛からようやく解放された。
そして、その呪縛が解けてしまった以上、自分には競技をやる理由がなかった。
自分にとって、トレーニングはきつくて苦しいものでだった。
でも、負けることの方が練習以上にとてもツラいからここまで続けてこられた。

 

3年の1月、ベースを買った。
この頃はもうライブによく行っていて、ベースに惹かれ、自分も弾きたくなっていた。
ベースを買ってからは、毎日一人で弾いていた。

 

4年生になると、INNOVATION WORLD FESTAというJ-WAVE主催のフェスで、縁あって大好きなパスピエのライブの演出を任せていただく機会が得られた。

こういった企画に携わるのは初めてで大変なことも多くあったが、それ以上に今までステージに立っている姿を見ていたアーティストと一緒にライブを作れる喜びが大きかった。

 

11月の学園祭でのライブを見たのをきっかけに軽音サークルにも入った。
今まで一人で弾いていたベースが、バンドの中でグルーヴしていく感じがたまらなく気持ちがいい。
サークルの人間たちと一緒に遊ぶのもすごく楽しい。
どうしてもっと早く入らなかったんだ、バカタレ。

 

この頃になると、大学の授業でものを作ることも増えてきて、どんどん楽しくなってくる。

4年生(3年生)の末には、研究室に配属される。
工学システム学類では、成績順で希望の研究室に入れる。
幸いにも成績がそれなりだったおかげで希望の研究室に入ることができた。

 

卒業研究を行いながら大学院の推薦入試の対策も行なっていく。
大学院入試に出願するのに外部の英語試験のスコアが必要だが、コロナの影響でTOEICを受験できず、やむをえずTOEFLを受験する必要があった。
TOEICとは違って、英語力を身につけないとスコアは伸びないから本格的な英語の勉強を久しぶりにした。
普段は音楽を聴きながら勉強をしているが、英語の勉強中はそれができず苦しかった。

それでも、ぼちぼちなスコアが取れた。

 

この年はIVRC2020というVR系のコンテストに友人とチームを組んで出場していた。
モノを最後まで作り切ってコンテストに出すのは初めてで、知識も経験もついた。
"最後まで作りきる"ことの重要性に気づいた。
残念ながら最終審査までは進めなかったが、次回までに力をつけてリベンジしたい。

 

IVRCの制作」と「大学院入試の勉強」と「卒業研究」が期間的に被っていたが、部活をやっていた頃に比べればあまり苦でなかったと思う。


そんなこんなで大学院には無事に合格できた。

大学院に合格してからは卒業研究を進めつつ、ようやく自分の時間が取れて、ベースをたくさん弾いたり展示を見に行ったりできるようになってきた。

 

GFBという音楽フェスでは配信スタッフとして携わることができ、貴重な経験ができた。

 

年末には大学の使われなくなった宿舎を用いて展示を以前行なっていた「平砂アートムーヴメント」という団体が、駅前の使われなくなった施設を使用して再び展示を行う、ということで出展を申し込んだ。

ずっと考えていた作品案があり、それを出せる機会を探していたからとてもタイミングが良かった。
展示に作品を出すのはこれが初めてで、準備から展示まで分からないことだらけだったが、作品へのフィードバックをいただけたり、自分の作品と向き合えたり、改めて出展して良かったなと思う。

 

4月からは研究テーマの都合で研究室を移動する予定だ。

 

大学のこの5年間、自分で振り返っても本当にいろんな環境を転々としていたなと思う。
今になって思うと、自分は「やりたいことをやるための努力」や「そのために必要な面倒なこと」はいくらでもできる。
そうではなく、やりたいことにつながらない、もしくは居心地が悪いと感じたときにはすぐに辞めたり撤退したりする、躊躇なく。
やりたくないことに使う時間など、はっきり言って誰も幸せになれない。

 

人間には幸せになる義務があると思う。だから、幸せになるために逃げることは全然恥なんかではないと思う。
もしそれでなにも知らない誰かが「そんなふらふらしてたら何にもできないよ」とか言ってきたら「お前に俺が幸せになるのを邪魔する権利はねえ」と中指を立ててやればいい。

みんなで幸せになろうぜ。